海を走る氷の馬

この世の楽しそうなこと全て体験しないと気が済まない

あの頃日能研が全てだった

2月1日が来ると毎年中学受験を思い出す。

私が小3の時、歩いていける距離に日能研の新しい校舎が出来た。週に一度か二度の国算の授業から始まって、小6の頃には平日毎日通っていたけど一度も嫌だと思った事がなかった。小学生にとっては「同じ小学校以外の友達がいる」という環境自体が新鮮だったし、そこには好きな男の子もいたし、国語の先生は星新一とか宮部みゆきの本を貸してくれるし、お弁当の時間にたまにマクドナルドを食べることもできた。(注文しとけば休憩時間に合わせて近所のマクドナルドがデリバリーしてくれるという夢のようなシステムだった)

何より私の選民意識は酷かった。中学受験をする自分のことを偉いと思っていて、塾で習った知識を学校でしつこくひけらかして先生に注意されたこともある。今思い返すとなんて生意気な子供だったんだろうと頭を抱えたくなる。

自分のことをすごく大人だと思っていた。その辺の子よりたくさん知識があって、自分で考えることができる一歩進んだ存在。そんな意識をひっくり返されるような出来事は、全ての受験が終わってみんなの進路が決まり、もう日能研に通うのもあと僅かという日に思いがけず訪れた。

まだ出来て間もない校舎だったからか、どこも一律でやるのか、日能研生活についてのアンケートを書かされる時間があった。よくある五段階評価に丸をつけるタイプのものだ。教室で静かに回答していると、この校舎の責任者である室長が入ってきてこんなことを言った。「いやぁ、みんなには一流の先生を用意してあげたかったんだけどね、社会だけはね。社会だけはなぁ〜一流の先生じゃなくて申し訳なかったよ、他の先生は一流の人が集まったんだけどね、社会だけはね」

今でも記憶に残っている、繰り返される「一流」というワード。その異様な雰囲気に気押されて、私は「とても良かった」に丸を付けようとしていた社会の先生の評価を下げてしまった。室長がそんなふうに言うから、私には分かってなかっただけで実は良い先生じゃなかったのかも、と思ってしまったから。確かに変わった先生ではあった。「皆さんのように中学受験をするようなご家庭のお米はコシヒカリでしょうがうちみたいな貧乏な家ではもっぱらパールライスですよ」というのが口癖で、私は自分が食べているお米がなにかも知らない子供の癖にその自虐を笑っていた。のちに家でもパールライスを食べていることを知った時はショックと恥ずかしさが同時に訪れて土に埋まりたくなったこともよく覚えている。でも授業は面白くてプリントもいつも凝ってたし、どう考えても「一流じゃない」なんて言われる筋合いはなかったはずだ。それなのに、私は「とても良かった」に丸ができなかった。だって室長があんなこと言うから。受験の日の朝、私が受ける学校の前で待ってて励ましてくれた室長がそんなこと言うから。まだ他の子も来るはずなのに「お前見たことないくらい顔が白いぞ」と言って校門ギリギリまで付いてきてくれた室長のことが、私は大好きだった。

教室を出て同じ方角に帰る友達と、どちらからともなく「さっきのアンケートさ…」と確かめ合ったら、やはりその子もおかしいなと思いながらも社会の先生の評価を下げてしまっていた。どうして自分の判断に自信を持って「とても良かった」にしなかったんだろう?室長にあんなこと言われるまでは、ちゃんとどの先生も大好きで良い授業だったと思っていたはずなのに。この瞬間、「自分は子供だ」という事実を猛烈に突き付けられた気がした。どんなに良い気になっても、所詮小学6年生だったのだ。信頼する大人の意見には簡単に惑わされてしまう子供だったのだ。生意気でこまっしゃくれたガキだったと思う自分でさえ、大人の顔色を伺い大人に気に入られる行動を取りたがっていた。2月1日がくるたびに、子供にとって身近な大人の意見や態度がどんなに大きい意味を持つのかを思い出す。子供が産まれた今は尚更しっかりしなきゃ、と思う。子供は怖いくらい簡単に染まってしまう。

あの時の室長は何歳くらいだったのかな。せいぜい35くらいだったかな。簡単に自分の思い通りに子供たちを操作できてしまってどう思ったろう。ちょっと聞いてみたい気もする。


余談だけど、中学に入ってからもごくたまに帰り道に日能研に寄って先生たちの顔だけ見て帰ったりしていた。ある時ものすごく久しぶりに立ち寄ったら、事務のS先生だけが受付にいた。S先生は茶髪のロングヘアの女性で、この校舎に最初からいて私のこともよく覚えていてくれた。室長は?と聞くとその時には違う校舎に異動になっていた。なーんだ、と思っていたら、そのS先生が「今は私が室長なんだよ」と教えてくれて私は心底びっくりした。女の人でも室長になれるんだ!それまで私の知っている偉い大人は全員男の人だった。女の人でも室長になれる、そのことを知ってすごくポカポカした気持ちで家に帰ったことをよく覚えている。私にとって女と仕事について考えるはじめての出来事だった。

あの時のS先生のふふん、といたずらっぽく笑った顔を今でもはっきりと思い出せる。やっぱり、あの頃は日能研が全てだった。